極夜

ブルーリフレクション澪、二次創作短文です。

猫が死ぬ描写と駒川詩が殴られる描写があります。

  

《いまこのやわらかなさざめきは懐かしい姉の声に似て》
《烈しい快楽に心うごかしたこの身をたしなめる》

1.
 駒川詩の歩く道にはいつも静かに雨が降り続いていた。雨は霧のようにまとわりついて詩の身を冷やす。傘を持つ手はすっかり濡れてしまっていた。
 詩は目を閉じた。笑顔を張り付けて相槌を打つ恥ずかしい自分が脳裏に浮かぶ。怒りや悪意を隠して笑う姿は醜い。
 詩は目を閉じたまま足を踏み出した。
 一、二、三。一、二、三。左に曲がって一、二、三。
 詩は危なげなく歩く。
 その道はずっと変化がなく、死んでいるようなものだった。目を閉じたまま、どこまででも歩いていけてしまう気がした。目を閉じたのは退屈さに逆らう小さな挑戦だったが、かえって変化しないことを確かめただけに終わった。
 信号が変わり、車が背後から詩を追い抜いていった。そしてすぐに小さな衝突音と猫の悲鳴。タイヤの鳴る音がそれに続く。車はすぐに立ち去って、轢かれて腰のねじれてしまった子猫が後に残された。子猫は何日も食べていないのか痩せ細っていて、小さくうめき声をあげながら痙攣していた。裂けた腹からは腸が飛び出して、脚がぴくりと空を蹴るたび腸が跳ねて音を立てた。
 ――まだ生きてる、待っててね!
 詩は苦しむ猫の脇を駆け抜け、急いでコンビニへ向かった。

「よかった、間に合った!」
 詩は今にも死にそうな子猫のそばに跪いて、買ったばかりのチャオチュールの封をちぎった。
「ほら、おなめ」
 詩は切り口から中身を少しだけ出して猫の鼻先に向けた。猫はニャアニャアとかぼそく鳴いていたが、匂いを嗅ぎつけると舌を出しておやつをペロペロと舐め取った。
 猫はもっと欲しそうに下半身を引きずりながら腕だけで詩の下へと懸命に進む。
「お前はいま、最高に生きているんだね」
 詩は感激して新しいチャオチュールの封を切った。そして、息も絶え絶えにそれを舐める猫の姿をスマホで記録した。

 やがて猫は息絶えた。猫を看取った詩は満たされていた。
 道端に伸びている腸を猫の体内に戻して、死体をうやうやしく両手で掬い上げた。
 詩は歩道傍の花壇に膝をついて手で墓穴を掘った。スカートに雨が浸み込むことも気にならなかった。詩の体にまとわりつく雨は湯気になって消えていった。
 道端から掬い上げたときと同じように墓穴の底に猫をうやうやしく横たえて、上から静かに土を戻した。

2.
 駒川詩と山田仁菜は聖イネス学園の教会で出会った。
 幼さと垢の臭いのする捨て猫。それが仁菜に抱いた第一印象だった。死んだように覇気がなく、瞳にはなんの色もない。仁菜は世界に対してなんの関心も持っていないようだった。
 そんな仁菜だったが、ある言葉にだけ反応することを詩は発見した。
ごきげんよう、山田さん。山田さんはどんな食べ物が好きなのかしら? ねえ山田さん?」
「なにを読んでいらっしゃるのかしら、山田さん?」
「山田さん、顔色が悪いようですけど?」
「山田さん」
「山田さん」
 仁菜ははじめ小さく舌打ちを返すだけだった。けれど何度も何度も執拗にくり返すとやがて変化が訪れた。
「……ニーナ」
「はい?」
「私の名前は仁菜だ。ニーナさんと呼べ……」
 ――あはっ!
 詩は自分の口角が吊り上がっていくのを感じた。仁菜は山田と呼ばれることを嫌がっているのだ。
「はい、何ですぅ? 聞こえなーい。人にものを頼むときはもっと大きな声で言ってくださいませんか、山田センパイ!」
 詩が挑発を畳み掛けると仁菜の雰囲気は一変した。瞳はより暗く落ち窪んで、身体は死んだように硬直した。
 詩はわくわくしながら仁菜の動向を見守った。
 けれど仁菜は小さく舌を打ち、キャリーケースを引きずって礼拝堂から出て行った。
「なあんだ、つまんない」
 詩は不満を声に出して言った。そこに仁菜はいなかったが、この不満を仁菜が聞いたらどう反応するだろうと想像しただけで楽しい気持ちになった。

《いま、夜は物音もない。岸と峰の間にただよう闇は、仄くらくしかも澄明に》
《やわらかに融けあい、しかもけざやかにみえる》

 ある晩のことだった。詩が控え室のソファでまどろんでいると、すぐ近くにフラグメントの暴走する気配を感じた。空間が歪んで悲しみが辺りに立ち込め、詩は自分が迷子になったような心細さを覚えた。
 その歪みは仁菜から発生していた。仁菜に近づくほど鉄と埃の臭いが強まり、抱えきれない殺意に窒息してしまいそうになる。
 詩は眠る仁菜の隣に腰を下ろして、仁菜の胸の中に手を差し込んだ。仁菜の中は剃刀で切るように冷たく、無数の針が刺すような痛みがあった。だがそれだけだ。それだけしかなかった。
「そんなことってあります?」
 詩はもっと奥までまさぐったが、他に手に触れられるものは何ひとつなかった。
「痛々しい世界。けれどこれじゃあ……」
 退屈――と言いかけた詩の腕を仁菜が掴んだ。
「何をしてやがる!」
「あれ、起こしちゃいましたぁ?」
「この手を離せ!」
 仁菜は詩の腕を引き離そうとするが、詩は抜かせまいと抵抗した。
「山田センパイは心の中になにもないじゃないですか。何もないのに、なにを怒ることがあるんです?」
 詩が問うと仁菜の瞳に微かに光が宿り、心の中の雰囲気が変わった。
「これはなんです?」
「やめろ、勝手に触るな!」
 仁菜はなんとか逃れようとするが、詩は馬乗りになって無理やり腕を仁菜に突っ込む。
 詩は仁菜の中にかぼそい光を感じた。墓参りのときのような、死者に向ける悼みの気持ちだ。
「大切なひとを亡くしてしまったのね?」
 詩の言葉に呼応するように仁菜の心は再び冷え込み、瞳からも色が消えた。仁菜は胸に差し込まれたままの詩の腕を逃さないように掴んで、空いたほうの手を拳にして詩の顔面に打ちつけた。
 一、二、三。一、二、三。左に倒して一、二、三。
 詩は仁菜の中にもう光を感じることはできなかった。

《おお夜よ、嵐よ、闇よ、あやしいまで強く
力にみちながらも美わしいものよ》
《女の黒い瞳のなかの光にもたとえようか》

 やがて詩は意識を取り戻した。そのことで今まで気絶していたことを知った。
 顔がじんじんと痛んだが気分は爽快だった。
 肺いっぱいに息を吸い込むと血の匂いが鼻をついた、埃を吸い込んでしまい激しく咳き込む。
 起き上がって辺りを見回す。仁菜はもうここにはいない。左目に違和感があり、触れると大きな瘤ができていた。頬も腫れていて、歯茎がじくじくと痛んだ。
 詩は右手を見た。先刻まで仁菜の中に入っていた手だ。指先から鉄と埃と垢の混じり合った甘い香りがした。詩は残らず舐め取るように舌を指に這わせた。

3.
 雨は真夜中過ぎには降り止んで、翌朝には雲間から太陽がのぞいた。大地は夜の雨をたっぷりと吸い込んで、朝霧を立ち上らせた。
 眼帯越しの半分だけの世界は、けれど完全なもののように感じた。必要なものすべてがそこに揃っていた。
 詩はスマホを取り出して自分を映した。眼帯の下でいびつに膨らんだまぶた、赤黒く腫れた頬、裂けた唇。
 詩は画面に写る自分の顔を嬉しく思った。
 ――欲しかったんじゃない、いらなかったんだ。
 それに気付いたとき、昔からまとわりついていたものが正体を現し、そして消えていった。
 詩は違和感のなくなった自分の顔をスマホに記録した。

 いつもの道だったものは新しく生まれ変わり、知らない道へと変貌した。
 手をまっすぐに伸ばすと、指の先に霧の粒が触れているのを感じた。水の中を泳ぐように、大きく霧を掻く。体じゅうが軽く、足が自然とステップを踏みはじめる。
 一、二、三。一、二、三。大きく弾んで一、二、三。
 立ち込めた霧は、詩がひらりと跳ねるたび大きくうねり、道を開けて行き先を示してくれる。

《ああ、これこそ夜だ。――かがやかな夜だ》
《おまえは、睡りのためにつくられたのではない》
《この凄まじくうるわしい狂喜のうちに、わたしも加えよ》

 猫の眠る花壇には何かの花が芽生えていた。詩は土に手を突っ込んで中をまさぐった。猫はやわらかい土の中にうずまって、ゆっくりと腐り始めていた。
 土から引き上げた指先から雨と土と猫の甘い匂いが立ち上っている。
 ――ここにはどんな花が咲くのかしら。
 そして詩はスマホを取り出して、芽生えたばかりの花を記録した。

 

 

詩の短文です。

詩は生の実感を得るために死を感じようとしている人物だと考え、死のほかになにもない仁菜を対比キャラとして捉えました。

1.2.3のステップは3を重要視している作風にならって、生への転換点として扱っています。スマホへの記録は生きている一瞬を永遠のものにする行為、両手で掬う動作や猫のはらわたを戻す行為などはフラグメントを再生させるリフレクターのように描きました。

引用した詩はバイロンの「澄明、静謐のレマン湖」です。