平原陽桜莉と呼ばれた少女 ──ブルーリフレクション澪【感想】

 平原陽桜莉とは何者なのだろう。

 ブルーリフレクション澪という作品は、中身を散らばらせながら落ちていくオルゴールの音と共に陽桜莉の語りから始まる。

 このときの語りを全文引用すると、

思いって不思議だ
丸くなったり、尖ったり
心のところにずっとあるのに
触れることはできなくて

きっと思いは私より私だって
そんな気がするのに
言葉にするのは難しくて
それでも私が私でいられたのは
お姉ちゃんがいてくれたから

思いを、私を大切にしてくれたから
ねえ? お姉ちゃん
だから、私もね……

 語りの背景に流れているオルゴールはシューベルトの野ばらで、詩はゲーテによるものだ。
 陽桜莉の語る思いとはフラグメントを指し、花として表現されている。
 ではフラグメントとはなんだろうか。

 ブルリフRは全24話で構成されているが、前半12話でフラグメントはこのように描写されている。

 

◆白樺都

 都はラインストーンやビーズといったキラキラした石が好きな少女で、これがフラグメントになっている。
 だが宝石ではないこれらの石は価値のないものとして母親に切り捨てられる。そして長男と、長男の獲得したトロフィーが尊重される。
 これは家父長制を描く物語でよく用いられる状況だ。
 都の石は宝石の偽物として扱われている。いわば「第二の珠」だ。
「第二の珠」が「家父長制」によって傷つけられているという描写は明らかな意図を持つ。これによって展開されたリープレンジが最も巨大であることは意図あってのことだろう。
 1話でも都はフラグメントを暴走させてリープレンジを展開させているが、職員室から出てきた都の手には三者面談の案内が握られている。
 三者面談は進路相談でもあるので、都は進路について両親とは異なる希望があることが窺える。それを教師に相談しにいったが失敗したのだろう。
 であるなら、都の希望は進学で、両親はそれに反対し、もっと「いいお嫁さん」になれるような進路を選ばせたがっているというような事情がありそうだ。
 以上のことから、都のフラグメントは「宝石の偽物」もしくは「第二の珠」だといえる。

◆矢崎由真

 由真はテニスのプレイヤーで実力は折り紙つきだ。
 けれど妬まれてしまい、いじめによって強烈なトラウマが刻まれてしまった。その経験から、ペアである江間香織が伸び悩んでいても練習メニューを提案することができず、江間からの提案に曖昧に同調するだけだ。
 つまり、由真のフラグメントはテニスだ。だが、その思いは一度大きく傷つけられた。そして陽桜莉と瑠夏によって思いを取り戻した。

◆高岡由紀子

 由紀子は先天性の免疫不全により子供の頃から家と病院の往復を繰り返す生活を送り、ほとんど学校に通えなかった少女だ。この病気のため他人と触れ合うことはほぼなく、家族でさえ接触には慎重を要したのだろう。
 そんな由紀子は繋がりをネットに求めた。本とネットで得た知識を使い、SNS上に由紀姫という別の人格を作ってお悩み相談室を開設し好評を博す。
 他者と繋がるために、病弱な本当の自分を隠し、本やネットで得た知識といういわば他人のフラグメントを用いた嘘を使い、一方的に頼られる存在としての繋がりを選んだといえる。
 由紀子のフラグメントとは他者と繋がりたいという思いだ。だがその思いが叶わないのは自分の病気に原因があると考えている。自分の思いを自分で否定する形だ。
 ほかに由紀子の登場する5話では自分を偽って他者と繋がることをやめた白樺都と駒川詩が登場する。
 他者と繋がるために自分を隠して嘘をつく、というのは他の登場人物にも見られる特徴だ。


 三名の登場人物を挙げたが、フラグメントとはそれぞれその人物の個性を決定づける思い、いわば人格の核を成すものとして扱われている。
 そして、それらフラグメントは理不尽に傷付けられている。

 他に、フラグメントは作中で姿を変えることもある。

◆田辺百

 モモは剣を握る腕に痺れを持つ少女だ。
 剣とは思いの矛だとされており、フラグメントと密接な関係がある。
 モモの腕の痺れは1話、4話、9話で描写される。いずれも剣で戦っている最中だ。
 だが2話で美弦と戦っているとき「だけ」腕の痺れの描写はされていない。なぜだろうか。
 9話での仁菜との戦闘でモモは「こんな奴はわたし一人で十分だ」という仁菜のセリフに触発されて美弦とバディだった記憶を取り戻す。
 モモは一人ではなく、美弦という一緒に戦うバディ、守るべき相手がいたのだ。
 これによりモモは腕の痺れから解放され、本来のリフレクター姿を取り戻し、剣も本来あるべき形を取る。
 このときの剣は幅広で、剣というよりはまるで盾のようだ。
 これらを踏まえると、腕の痺れは攻撃するとき発生し、誰かを守るときは痺れない。つまり、モモの力は他者を傷つけるものではない。
 これがモモのフラグメントだ。モモの力は誰かを守るためにある。バディである美弦との衝突は思いのぶつかり合いなので痺れないのだろう。

 これを踏まえて4話を見ると、戦い方を教えて欲しいという陽桜莉たちに対し、曖昧な態度を取ったモモの心中を察することができる。
 腕が痺れているモモの力は暴力にすぎない。誰かを守る力ではない。
 学校を中退し、家を出て祖母の家に転がり込み、祖母と母の関係を引き裂いた過去の記憶が描写される。後に、裏通りでひとりコンクリートの壁に拳を打ちつけて葛藤する描写もされる。
 このことから、モモは何かに怒りを覚えているが、その発露の仕方も、どうすればいいのかも、ひいては自分が何者であるのかもわからなかったのだ。美弦はそんなモモの一番の友達だ。
 モモが陽桜莉に戦闘を教えるのを躊躇ったのは、リフレクター活動の先に美弦との戦いが待っているからだ。
 自分が誘ったことで、姉妹を戦わせることになるのだ。
 そんなモモは、バディとして前に進もうとする陽桜莉たちの姿と、詩の発破によって覚悟を決める。
 姉妹喧嘩を必ず止める、自分のような目には合わせない、もう繰り返さないというような決意だろう。

 そんなモモだったが、12話で自らのフラグメントを自壊させてしまう。姉である美弦の手で陽桜莉を傷付ける事態を止めることができなかったからだ。
 また誰も守れなかった、自分は何のために存在しているのか、そんなふうに自分を責めたのだろう。
 これは自らのフラグメントを川に流そうとした少女たちとまったく同じ意味を持つ。
 後にモモは意識を取り戻すが、もちろん陽桜莉と美弦が和解したからだ。
 
 陽桜莉のフラグメントとは何だろうか。
 陽桜莉が大切にしている思いとは、姉である美弦との繋がりだ。これが陽桜莉のフラグメントであることは間違いない。
 ある日、突然失踪し、他者のフラグメントを抜いて回るという、陽桜莉には到底受け入れられない現実を目の当たりにしても美弦への思いは変わらない。そのため葛藤に苦しむことになる。
 陽桜莉にとって美弦への思いは捨てることなどできないフラグメントだ。だから陽桜莉は他者の思いも大切にする。
 こんな陽桜莉が美弦と対峙するのが作品の折り返し地点である12話だ。
 美弦の絶叫から始まる12話は全員の思いが交錯する濃密なドラマになっており、それが凄まじい迫力で展開される。
 あくまで端的に要素を抽出すると、陽桜莉は美弦との別れを一切受け付けなかった。
 一方美弦だが、美弦は陽桜莉に新しい世界を知ってもらうために入寮を勧めたが、それが陽桜莉にとっては捨てられたと同じ意味に感じられて苦痛だった。そのため1周目では自らのフラグメントを自壊させてしまった。母だけでなく姉にまで捨てられてしまい、もう消えてしまいたいと思ったからだ。「いなくなりたい、消えてしまいたい」という思いはつまり自殺したいという思いだ。
 だから2周目の美弦は、陽桜莉を外に出すのではなく、自分が出て行く選択をした。自分がいては陽桜莉がダメになるという体裁だが、その心は常に揺れ動いている。その心の根底には陽桜莉を失う恐怖があった。恐怖と向き合うことができず、逃げていたのだ。
 大切なものを守るために自分を殺すというシークエンスは作中至る所に見ることができる。
 そんな美弦は12話で選択した。大切なものがたくさんある美弦は自分を殺し、モモと陽桜莉を捨て、紫乃を選んだ。だが世界から思いをなくす目的は陽桜莉のフラグメントを自壊させないためだ。思いがなければ自壊することもない。かなり歪んだロジックだが、目の前でモモを失い、美弦にはもう陽桜莉しかいないのだ。死なせてしまうくらいなら、思いのない人形であっても手元に置いておきたいということだ。紫乃を選んでおきながら陽桜莉を捨てることができず、モモを捨てておきながら割れたフラグメントの欠片を肌身離さず持っているあたり、美弦はずるい女なのだ。
 そして、陽桜莉のために世界を変えるという選択は後に独りよがりな思いだと断じられることになる。
 このようにして陽桜莉と美弦の二人はすれ違った。
 物語の意図として、今の陽桜莉の思いでは美弦と繋がることはできないと突き放されている格好だ。

 では、どうすれば陽桜莉は美弦と繋がることができるのだろうか。

 後半となる13話からは二人の登場人物が現れる。
 皇亜未琉と橘涼楓だ。

◆皇亜未琉

 皇亜未琉は同性愛者だ。
 亜未琉は子供の頃から自分の性的指向が他人とは違うことを自覚していたが、幼馴染の橘涼楓とだけは同じなのだと感じていた。けれど、涼楓は同性愛者ではなかったと知り、それでもそばにいるためにフラグメントを抜いた。
 つまり亜未琉のフラグメントとは自分の性的指向だ。アイデンティティを失った亜未琉は記憶が欠落していき、やがて魂の抜けた人形のようになり眠りにつく。
 亜未琉という名前は「未(いま)だ琉(たま)に亜(つ)ぐ」と書く。瑠璃のような宝石ではない、いわば「宝石の偽物」「第二の琉」といった意味だ。亜未琉の特徴を考えれば、同性愛者とはもう一方の性であり、これはそのまま女性はもう一方の性であると繋がる。「第二の性」だ。
 涼楓については語られていないが、亜未琉と同じだということは何らかのマイノリティなのだろう。亜未琉と同衾するが性的接触はなく、亜未琉から向けられる恋心に執着しているのでノンセクシャルなのかもしれない。恋人を作るつもりはないというセリフの根底には自己否定があるのだろう。
 二人はすれ違ったが、このことについて話し合っていない。お互いに向き合うことを避け、自分を殺すことで関係を維持しようとした。向き合うことで永遠の別れになるかもしれない恐怖があったからだ。だから亜未琉はフラグメントを抜くことを自分から志願した。
 この亜未琉のフラグメントを抜いたのが山田仁菜だ。

◆山田仁菜

 山田仁菜は愛を知らない少女だ。
 仁菜のフラグメントは「一人でも大丈夫だ」というものだ。けれど仁菜のそれは普通の孤独ではない。家族や社会から完全に切り離され、戸籍すらない本当の孤独だ。孤独という言葉でさえ生ぬるい。
 けれど仁菜の孤独は自分で選んだものではない。環境が仁菜を孤独にさせた。
 仁菜自身は母親や望と向き合いたがっていた。けれどその機会は永遠に失われた。母親も望も殺されてしまったからだ。
 死は対話の可能性を失わせる。自分を殺してフラグメントを抜き、眠りについてしまった少女たちがいる。仁菜は死なれて取り残された少女だ。
 美弦との共鳴で陽桜莉が妹であること、陽桜莉と美弦が向き合わずにいるせいで、美弦が殺されてしまったことを知った。これが陽桜莉を殺そうとした理由だ。陽桜莉さえいなければ美弦が死ぬこともないはずだと考えたからだ。
 つまり、美弦の幸せのために陽桜莉を殺そうとしたのだ。

 仁菜の腕もモモと同じように痺れる描写がされる。
 いずれも美弦絡みで、美弦の行くところへどこまでも着いて行くと言うシーン、モモの相手など一人で十分だと言うシーンで挿入されている。
 孤独が強さの根源であるから、美弦に着いていきたい気持ちは痺れとなって拒否されたのだろう。
 一人で大丈夫だと言ったときも、もはや自分は一人で大丈夫などと思っておらず、美弦が必要だとの思いが根底にあるから痺れたのだ。
 仁菜は美弦と出会ったことで孤独ではなくなった。

 仁菜のフラグメントも形を変えている。
 12話での陽桜莉のセリフを全文引用してみよう。

おんなじだよ
私も仁菜ちゃんと同じようにお姉ちゃんを思ってる
笑顔にしたい、お姉ちゃんに誰よりも幸せになってほしい
お姉ちゃんが苦しいときや悲しい時は私も一緒に背負いたい
一人でも大丈夫だってお姉ちゃんならそう言うかもしれない
それでもそばにいたい
できるならずっと
どんなときも思ってる
お姉ちゃんが大切なの
愛してる

 これはそのまま仁菜の思いだ。
 陽桜莉のセリフという形で、直接的な言葉で語っている。
 これによって仁菜は自分の思いを完全に自覚した。
 これ以降、仁菜は美弦を止めるために敵対する。つまり仁菜なりに美弦と向き合おうとしているのだ。

 仁菜のフラグメントも作中で変化し、それは腕の痺れと指輪の色で表される。
 23話で仁菜が詩の心と向き合おうと決めた時、指輪の色が赤から青へと変化した。これは、赤い指輪は自分を殺すこと、青い指輪は相手と向き合うことだとの意味が込められている。
 このとき仁菜が詩の剣を受けずに身をかわした理由がこれだ。詩が仁菜と、ひいては自分の本心と向き合おうとしていないからだ。

 孤独であることが人格の核となっている少女が愛を知るとどうなるのだろうか。
 23話でのコモン内にて、美弦のバディはモモ以外にありえないと描写され、仁菜の胸から現れた望の姿をしたクリスタル体に「私は何番目の望?」と囁かれ、仁菜はフラグメントを失う。
 この囁きは無数にフラグメントを奪ってきたことへの後悔かもしれないし、望や美弦は得ることができなかった母の愛の代替品だと自覚したことかもしれない。
 何もなかった少女が愛を知り、愛がすべてとなった。
 孤独であることと愛が全てであることは背中合わせだ。何もないところに愛がぽつんとひとつ置かれれば、その世界には愛以外存在しないことになってしまう。
 孤独であることが強さだった仁菜は、自分が本当に孤独なのだと知ってフラグメントを失った。
 美弦と繋がれずにフラグメントを失ったこの仁菜は、1周目でフラグメントを自壊させた陽桜莉と重ねられている。仁菜は陽桜莉と同じように、今度は自分の中の愛と向き合わなければならない。

◆駒川詩

 駒川詩の思いは、クラスでの人間関係を上辺だけの茶番と捉えていると描写されている。この人間関係に「本当の思い」を感じられずにいる。形だけは一緒にいるが、その心は孤独だ。
 そんなある日、男の持つナイフによってスカートを切り裂かれ、右足を傷つけられてしまう。
 これはただの通り魔などではない。作品の性質上、男性から女性へ振るわれる暴力を指している。そして、ナイフで人間を刺しておいて殺意がなかったなどという言い訳は通らない。
 駒川詩はフェミサイドの被害者だ。
 だが、この痛みによって詩ははじめて生を実感してしまう。
 女性嫌悪を「本当の思い」と認識してしまったのだ。
 つまり駒川詩のフラグメントとは「本当の思いによる繋がり」だということになる。
 それなのに「本当の思いによる繋がり」とは差別感情という歪んだ思いで傷付けられることだと刷り込まれてしまった。
 20話で、紫乃による過去のトラウマを呼び起こさせる幻術攻撃のシーンがある。
 愛する者に傷つけられる痛みに囚われている陽桜莉と仁菜、向き合うことを避けたために相手を殺してしまった瑠夏と涼楓、それに対して詩はクラスメイトと繋がれなかったトラウマを、自分を傷つけた痛みと自傷行為に向けられる嫌悪感によって克服してしまっている。
 自傷行為は心に強いストレスを受けることがきっかけとなる。怒りの発露や脳内麻薬による安らぎを求める行為だ。紫乃の見せる幻覚の中での詩の自傷行為とは不満の発露だが、一方で向けられた嫌悪感を「本当の思いによる繋がり」だとも感じている。
 過去の痛みと向き合って前に進もうとしている美弦とモモの思いによって四人は幻術を打ち破るが、詩だけが取り残される。誰とも繋がることができないまま、独りよがりの思いで自己完結してしまっているからだ。
 23話で仁菜と対峙するシーンでは、詩に向き合おうとする仁菜に対して、詩は傷付けて怒りを引き出そうとする。だが仁菜の内に悪意や憎しみはないので、剣戟は鍔迫り合いにすらならないのだ。
 詩が繋がりだと思っている憎しみによる加虐性は、結局のところ自分がそう思っているだけの偽りの繋がりに過ぎない。
 このとき詩の暴走を止めた都のフライパンでの一撃は、怒りや悪意などではなく、あくまでも寮則というルールに則ったものだ。つまり、ちゃんと叱られたということだ。悪いことをしたから、叱られる。ごく当たり前の人間関係である。
 最後に詩は、他人の暴走するフラグメントを感じて恍惚とした表情を浮かべている。捨ててしまいたくなる思いにうっとりと手を伸ばす姿もまた、相手の本当の思いに触れようとしているようにも見える。

 22話で、詩は加乃の演説に反論する。
 このとき加乃は痛みのない世界について説く。弱者を排除する側に立てば痛みはない、つまり思いやりの気持ちを捨てれば痛みを感じなくなるというロジックを展開している。
 これは優生思想に基づいた考え方だ。
 これに対する詩のセリフを全文引用してみよう。

それは困ります〜
痛みのない世界はつまらないです、ネクナン様
だって痛みって気持ちいいんですもの
痛みこそ実存
虚飾を排した純粋な自己
そう思いません、ネクナン様?
ねえ、ネクナン様ったら!

 詩の言う実存とはなんだろうか。
 本質と実存を例に考えると、本質とは「女性はこうあるべき」といった、あらかじめ定められた性質であり、実存とはその人物が将来的にとりうる可能性を指す。
 ペーパーナイフであれば目的や性能が決められてから作られるが、人間はまず生まれてから、生き始める。
 性別や肌の色などは虚飾に過ぎず、それを排したところに純粋な自己があり、生きていく中で本質が決定されていく。それには痛みが必ず伴うと言っているのだ。
 加乃はこの言葉に反論できない。加乃もまた同じ思いなのだろう。そうして加乃は折檻を受ける。その様はさながら悪魔祓いのようだ。

◆水崎紫乃

 水崎紫乃はイネス教という新興宗教の教祖に祭り上げられた少女だ。
 イネス教の教義は優生思想や自己責任論で塗り固められ、それを子供を使って語らせるキャッチーなやり口でこの世界に浸透させている。これは現代日本が抱える問題の縮図だ。
 爛漫とした子供だった紫乃はこの教義によって傷つけられ続けた。紫乃の母親はただの毒親などではない、風潮や社会通念のメタファーだ。
 そして加乃とは紫乃の心だ。
 間違いだとされたものは暴力で矯正され、自分の名前を奪われ、子供らしく騒いで遊ぶことでさえ厳しく罰せられた。
 そうして紫乃の心は麻痺し、無表情のままただの肉体的な反応として涙を流す。
 紫乃と加乃の痛みは写真集として売られ、見せ物としてメディアに受け入れられ、イネス教は莫大な資金を手に入れた。
 紫乃と加乃の二人は磔にされ、加乃は胸を抉られたが、このときの母親の手の動きはフラグメントを抜く動作そのものだ。そして傷口から滴り落ちた加乃の生き血を紫乃は無理やり飲まされる。
 このとき紫乃の心は完全に殺されたのだ。

 紫乃はリフレクターによる共感や安らぎを拒否する。そんなものは「市販のよく効く薬」に過ぎないからだ。根本的な解決にはならない。
 世界が変わらないなら死ぬしかない。
 そんな紫乃の思いが反映されたのが2周目の世界だ。
 この世界では、傷付いた思いは加乃の心臓を抉るのと同じ所作で根こそぎ引き抜かれ、思いを失った人物はやがて痛みを感じない人形のようになる。
 その世界に弱者は存在せず、ただ性的に客体化された子供を産む機械――ペーパーナイフがあるだけだ。

 11話にて、紫乃が野ばらを口ずさむシーンがある。

たおりてゆかん 野中のばら
たおらばたおれ 想い出ぐさに
君を刺さん
くれないにおう

 ブルーリフレクション澪という作品は野ばらから上記の部分を抜き出して引用している。この作品は意図を明確にするため、バイロン詩集のようにしばしばこのような切り抜きを行う。
 歌は最後の「野中のばら」のフレーズを省略している。
 原文では赤いバラだが日本語訳では紅匂う野中のバラと訳されている。
 だが、最後のフレーズを歌わないことで、紅の匂いはバラを折った少年から漂ってくるように受け取れる。
 野中のばらとはフラグメントだ。それが折られた報復に君を刺すという意味になるのだろう。その後に匂う紅とは血の匂いに他ならない。
 これは紫乃の決意の歌だ。
 強い決意の裏には、自分の弱さが加乃を殺してしまったのだと自分を責める思いもあるのだろう。
 いくら弱者と強者の線引きをしようとも、痛みを感じない人間などいない。紫乃はかつて自分を祭り上げ、他人事のように教義に共感し、弱者を見捨てた世界に復讐しようとしているのだ。
 けれど、そんな紫乃が2周目の世界をイネス教の教義のような世界に変えようとするのはなんとも皮肉だ。
 

 このように、各人物と関係する中で、陽桜莉が美弦と向き合うために必要なことが語られてきた。
 18話と19話での瑠夏のセリフがそれを端的に表している。

平原さん、今、なんて?
私には関係ない?
私、バディよ。
あなたのパートナーよ!

私はどんなあなたを知っても変わらない。
もしバカなことしたら、ちゃんとバカって言う。
思うだけの私は卒業したから。

 寄り添って、共に怒り、共に戦い、きちんと言葉を交わすこと。
 これが、陽桜莉が美弦と向き合うために必要だったことだ。
 モモの剣には炎の力が、仁菜には雷の力が宿っている。
 炎とは生命力、雷とは怒りだ。
 これには生きて戦えという意図があるのだろう。

◆平原陽桜莉

 数々の少女の思いを守ってきた陽桜莉もまた痛みを抱える少女だったが、瑠夏の思いの影響を受けて美弦と和解することができた。
 その後、陽桜莉たちはコモンにて紫乃を見つけ、その手を取ることができた。
 そのときの紫乃のセリフを全文引用する。

私は
私はただ私でいたい
空を見上げて青いねって思いきり息を吸いたい
誰かと一緒に楽しいねって
心から笑って、泣いて……。
誰にも思いを否定されず
自分が自分を好きだってそう思える
そういう世界に私は生きたい

 この紫乃のセリフこそが作品のテーマだ。
 紫乃をはじめとした少女たちは尊厳を傷つけられていたのだ。
 だが、同時に過去に囚われたままでは死を待つだけだとも説いている。
 思うだけでなく、一歩踏み出すことができれば、それが波及していく。
 具体的な行動を伴う思いは社会通念を、世界を変える力がある。

 オルゴールは閉じられた。
 たおられた花を思って憎しみにふける時間は終わったのだ。


 陽桜莉は最後に、

それでも私が私でいられたのは
みんながいてくれたから
思いを大切にすることができたから

 と、締めくくっている。最後の部分が1話の語りから変化した。
 陽桜莉は孤独ではなくなり、尊厳を取り戻した。
 陽桜莉という名前は、夜の終わりである太陽と、冬の終わりを告げる桜の意味を持つ。
 エンディングでは無数の光点が寄り添いあって銀河のように眩い光を放つ。
 連帯し、生きて、戦い、解放される「時が来た」のだ。

 ブルーリフレクション澪という作品は女性の客体化を徹底して拒否した作品だ。
 家父長制や優生思想、動物機械論などの要素はイネス教がキリスト教の影響下にあることを示す。紫乃と加乃という名前もシオンやカナンを連想させる。
 これら教義をサルトルボーヴォワールを下地に敷くことで批判している。格差を生む自己責任論も批判の対象だ。
 サブタイトルになっているのはザ・スミスモリッシーの楽曲からだが、モリッシーのパーソナリティによって作品の意図がより明確に表されている。
 ブルーリフレクション澪という作品の中心にはフェミニズムがあることは疑いようもない。
 だが、女性はもちろん、この作品のテーマは傷を負った全ての人に重なる内容なのではないだろうか。

 とはいえ、生きて戦えというメッセージも現実にはなかなか難しいものがある。
 私には戦うだけの気力もないし、自分のことだけで精一杯だ。
 だからこそモモや仁菜のように戦ってくれる荒くれ者が必要だ。
 もしそのような人物が現れれば、と切に願う。