けものフレンズ2 感想 (三つのテーマ)

◇はじめに
この物語は複雑に編み込まれているため、意味を取り違えないように分解しなくてはならない。なぜこのパーツがそこに必要だったのか。それを解き明かしたいというのが動機だ。けものフレンズ2はメインテーマである『キュルルの成長物語』を「おうち探し」という言葉で表現している。その旅路は『永遠・円環』というテーマで装飾されていた。
『永遠・円環』のテーマはいわばジャパリパークの世界観を説明するものだ。 

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けものフレンズ2にはもうひとつ、動物コンテンツなら当然あるであろうテーマあるいは通底したコンセプトがある。『人と動物との関わり』についての主張だ。
この記事はそれらテーマを分析することでそれぞれのシーンの意図を探ろうと試みるものだ。

 

 

 

1)キュルルの成長物語

けものフレンズ2のメインテーマは言うまでもなく主人公キュルルの成長物語だ。だが、その成長は勧善懲悪や問題・葛藤・解決による三幕構成によっては描かれない。
キュルルは問題を解決しない。なぜなら当事者ではないからだ。問題は常に解決されず、問題のベストな解決方法は鑑賞者である我々に委ねられる。
ではけものフレンズ2における「成長」とはなんだろうか。
まず、けものフレンズ2を成長物語だと裏付ける根拠から探っていこう。

コード化された成長物語

サンドスターの煌めきから生まれたヒトのフレンズにまつわるイメージといえば名前と記憶がないコピー品であり、まがい物であるから当然故郷もないということだ。とても悲しい幕開けだ。

廃墟の天井が崩れて穴が開き、暗闇に光が差し込む。まるで卵の殻を破って孵化するかのようだ。そこから生まれた子供がおぼつかない足取りで出口を目指す。扉を開くと子供の眼前には大地が果てしなく広がっている。
この廃墟はつまり子宮のメタファーだ。

子供は名前を貰う。名前とはアイデンティティであり、そこから人生がはじまるのだ。名付けは成長物語を象徴する行為だ。
そして子供はおうちに帰りたいと泣く。おうちとは自分のルーツの暗喩だ。

「危険極まりない溝」とは日常と非日常を分ける境界線を意味し、成長物語であればそこが旅のスタート地点として描かれる。
地震によって深く裂けた「危険極まりない溝」を仲間と共に遊びながら軽やかに越えてゆく。けものフレンズ2はそのような話だということだ。

「子宮」から生まれた子供が「名前」を手に入れて、「ルーツを探す」ために「境界を超えて」旅に出る。
成長物語によく見られる導入である。

変化する「おうち」

4話ではラッキービーストによって「おうち」はないと宣言される。このときの小道具にパズルがあるが、これは自分のアイデンティティである絵をバラバラに刻んで再構成することから「現実を受け入れて自分を変えなさい」というメッセージで成長を促しているのだろう。

「おうち」は、セリフで示される「動物にとっての巢や縄張り」と、ストーリーで示される「精神的な居場所」の両面で語られる。
けものフレンズ2はセリフやモノローグによるストーリーテリングがされないため、動物のことは誤解のないようきちんと文字や言葉で説明している。だから動物の特性である「巢や縄張り」はセリフによって過不足なく説明される。
「居場所」はストーリー展開の核であり、登場するゲストキャラクター達が何を居場所にしているのかが描かれる。「居場所」とは精神的な拠り所のようなものだ。
ふたりのパンダはお互いを居場所とし、得意なことと役に立つことの一致しているチーターはプロングホーンをライバルという居場所にし、マーゲイはステージ上を居場所と決めたPPPのマネージャーを居場所と決めた。イエイヌは記憶の中にしか存在しない飼育員や来園者との思い出を居場所とした。

物語が進むにつれてキュルルの感情表現は多彩になっていく。泣くか穏やかに笑うかしか表現のなかった子供は、たくらんだり不満を口にしたりするようになる。
そして1話と対比される7話では卑屈な笑顔を浮かべたり文句を漏らすカラカルをスルーしたりするようになる。

挨拶として交わされる自己紹介で、キュルルがアイデンティティをどの程度自覚しているか=どの程度成長しているかが示される。はじめ満足に挨拶もできない体たらくだったが、だんだん名前と目的をハキハキと伝えることができるようになっていくのだ。
3話では挨拶のできないキュルルと、挨拶と「ごほうび」が紐付いてしまっている海獣が対比されている。「挨拶をする理由」のすれ違いが滑稽だ。「ごほうび」のために挨拶をする海獣と、挨拶もろくにできないのに絵をあげて感謝を伝えようとするキュルルとが、どちらも何かが欠けた存在として対照的に映る。

感情表現の乏しいキュルルだが、成長が描かれる決定的なシーンがある。海辺の飛行機の上で「探しているおうちがはじめからなかったら僕はどこに行けばいいのだろう?」とサーバルに打ち明けるシーンだ。
キュルルの期待した返事は当然「私たちと一緒にいよう」とサーバルに誘って貰うことだったが、「なかったら探せないよ、でも探しているんだから見つかるよ」と励まされてしまう。期待していた返答と違うためキュルルは怒ったが、これは要するに甘えと照れ隠しだ。子供がすねてしまったといったところか。
背景に虹色の海が重ねられているのは、キュルルのこういった変化を物語は祝福しているということだ。

けものフレンズ2においてセリフは説明になっているため、サーバルの謎かけのようなセリフはそのままジャパリパークの精神を表している。「卵が先か鶏が先か」のような因果の循環を指していて、つまり円であり、テーマだ。

サーバルとかばんのサブプロット

一方、サーバルの物語もサブプロットとしてキュルルの成長と平行に描かれる。
物語前半ではかばんを「思い出せない」サーバルだが、「あてもなく探すつもり?」と問いかけるカラカルに「きっと見つかるよ」と返すシーンがある。
それが、物語後半でのキュルルに対しては「なかったら探せないよ、でも探しているんだから見つかるよ」と、より断定的な口調になっている。探し続ければいつか見つかることを既に知っているかのようだ。サーバルにどのような変化があったのだろうか。
単純に考えれば、サーバルは「探し物を見つけた」のだ。サーバルの探し物は「かばんの記憶」だった。サーバルはかばんを思い出したからキュルルにそのようなアドバイスをすることができたと考えるのが自然だろう。
だが、かばんはサーバルに対して知らないふりを続けている。

このときのキュルルの姿勢と似たシーンがかばんにもある。海辺でサーバルに「私たちもそう(いいコンビ)だったかな?」と探るシーンだ。かばんにはサーバルに言って欲しい言葉がある。飛行機の上で甘えるキュルルのように。
だがサーバルにスルーされてしまい、「なんでもない」と、急に笑顔ではぐらかしてしまう。

サーバルは相手が経験すべきことを肩代わりしない。水場のある丘へと登るかばんが転びそうになってもサーバルは手を出さない。キュルルに対しても同様で、見守りに徹して決して手を出さない。自分で経験させるために見守っているのだ。
「大好きだ」というキュルルの叫びに呼応するように、「また逢えるよね!?」とかばんは叫び、ようやくサーバルはかばんちゃんと呼びかける。
これがサーバルとかばんのサブプロットだ。
かばんがサーバル「ちゃん」と呼べるようになるのはまた別のお話だというわけで、その別のお話はイエイヌの持つスケッチがヒントになっている。

成長物語の結末

12話では1話の溝越えの結末が回収される。成長物語では本来、境界ははじめに渡った三人で再び超えなければならない。だからホテルの屋上にできた溝は三人で越えなくてはならないのだが、キュルルはこの溝を一人で越えてしまったため物語はこの時点ではバッドエンドとなる。

ホテルの上ではパークを居場所と決めたアニマルガールたちがセルリアンと戦っている。彼女たちは自分たちの問題を自分たちで解決しているのだ。実に楽しそうにドタバタと。
その戦いに加われていない者がいる。キュルル、かばん、ビーストの三人だ。つまり「のけもの」である。

キュルルには試練が与えられる。好きであるならビーストをどうするのかという問いかけだ。ビーストは野生の象徴であり、そこからも逃げるのかとパークは問いかけ、キュルルから帽子を奪い取る。得意な絵も、喜ぶ者のいないこの場所では何の意味もない。
結果としてはキュルルはビーストをアニマルガールたちの元へ連れて行った。キュルルにとってビーストと他のアニマルガールたちとの間に違いなどなかったのだ。とんでもなく強いアニマルガールとホテルの外でばったり会った、だから連れて来た。
キュルルはレッサーパンダを地味だと思わないし(後述する異化参照)、ご褒美をねだるアシカやイルカに違和感を持たない。キュルルにとってビーストはアムールトラのアニマルガールなのだ。

キュルルの判断によってビーストは居場所を得て、リョコウバトもまた居場所を得た。
かばんは一歩を踏み出す勇気を手に入れ、サーバルはようやくかばんちゃんと呼ぶことができた。
パークは「ようこそジャパリパークへ」と歌い上げ、のけものだった三人を歓迎し、取り上げた帽子をキュルルに返すのだ。
こうしてキュルルはパークの一員となった。

ホテルは倒壊し、キュルルのおうちさがしの旅は終わった。
キュルルは自分が何者であるのかを知り、自分の未来を決定する。今度は自分にできることを探す旅に出かけるのだ。

2)人と動物との関わり

世界から人がいなくなり動物園という概念がなくなったとき、その世界の住人には動物園がどのように映るのかという異化が描かれる。

2話

登場する二人のパンダは、人間の都合で名前を入れ替えられた背景を持つ。
新たにパンダと呼ばれることになったジャイアントパンダはあるがままに自由で、小さいパンダと呼ばれるようになったレッサーパンダは何かの役に立とうとどこか卑屈な姿勢を見せる。
レッサーパンダは自分を地味だと評価しているが、他者からはそう見えてはいない。むしろ白黒二色のモノトーンであるジャイアントパンダに比べると色数も多く、どちらかというと派手だ。
どこでも寝るというジャイアントパンダの人に愛される特徴も、その世界の住人にとっては無価値だ。ジャイアントパンダはただ眠っているだけだ。
レッサーパンダジャイアントパンダが派手でよく眠るから一緒にいるわけではないし、ジャイアントパンダレッサーパンダが役に立つから一緒にいるわけではない。物語はそのような結びになっている。

ふたりのパンダは11話では得意なことの異なる対等の存在として描かれている。
眠っているジャイアントパンダを起こそうとするゴリラとレッサーパンダの考えは対照的だ。ゴリラは起こして一緒に逃げようと考えているが、睡眠を邪魔されたジャイアントパンダは凶悪だということを十分に理解しているレッサーパンダジャイアントパンダの眠りを妨げるということは、つまりジャイアントパンダを起こしてセルリアンを倒してもらおうと考えていたわけだ。
11話ではふたりのパンダは対等な存在として描かれている。

余談だが、レッサーパンダのデザインは従来のネパールからEXのシセンに変更されている。アニメに合わせて生息地を揃えられていることも、二人のパンダは人間の都合に関わらず昔から当たり前に友達だというストーリーの裏付けになっている。

 

3話


3話ではバンドウイルカとカリフォルニアアシカが登場する。どちらの動物もショーの花形だ。
二人にとって挨拶は芸なので「ごほうび」を貰えないと挨拶をやめることができない。だが動物園を知らないキュルルたちにはそのルールがわからないのだ。
人間による調教を受けた海獣たちは人間のいない世界ではとても不自然な存在にみえる。

芸とは本来人間と動物がコミュニケーションを取るための手段であるはずが、人間がいないために芸をすることそのものが目的になってしまい、「ごほうび」は形骸化している。そのため、「ごほうび」を貰えないからといって人間を海の上に放置したりしてしまう。本末転倒だ。

物語は自分たちの芸が賞賛を受け、それによってなぜ芸をするのかという根本的な意味を思い出し、それが3話冒頭の問いに答える形となり、「ごほうび」の束縛から解き放たれたという結びを迎える。

こういった人に懐く動物を客寄せに利用している側面はもちろんあるので、ファンとしては冷や水をかけられる思いがしただろう。動物園の持つ負の側面から目を逸らさず動物との関わり方を常に考えていかなくてはならないとの気持ちにさせられる。
3話と対比関係にある9話ではイエイヌが登場する。動物園で犬が飼われているはずがなく、動物園に捨てられた飼い犬だと言外に滲んでいる。

4話


レールから外れるということは決められた道から外れるということを意味するので、それをジャパリパークに当てはめて考えると、「動物園のルールの外に出た動物」ということになる。この話では本能に基づいて蟻塚の近くに集まる、自然に帰った動物たちが登場する。
自然に帰った動物たちは依頼を受けて探し物をしたり空いた巣を斡旋したりと、自分の得意なことを仕事にする新しい生態系を築いている。
4話ではキュルルのおうちはないと否定されてしまう。こういった世界にキュルルはどう関わっていくべきなのだろうか。

5話


5話では動物を自在に操った人の力にまつわる話が展開されるが、ここまでの話からすると人の力とは飼育員によるしつけや調教を指すのだろう。
いうまでもないが、動物をしつけたり芸を仕込んだりというのは信頼関係があって初めて成立するコミュニケーションだ。
また、このことからディスク1枚目の2.3話と2枚目の5.6話はテーマ的な対比関係になっていることがわかる。

ここまでの流れで、けものフレンズ2から人と動物との関わり方への問いかけが行われたことがわかる。

アニマルガールを異化するビースト

我々にはすでにお馴染みとなったアニマルガールだが、アニマルガールに似た姿のビーストは喋ることができず、笑うこともなく、コミュニケーションを一切取れない異物であり、作中では徹底して野生動物のように描かれる。
動物であるアニマルガールたちがビーストを排除する理由はコミュニケーションの取れない凶暴な相手だからだ。これはそのまま人間と動物との関係を意味する。
ビーストはアニマルガールによく似たまったく違う存在だと異化することによって、人間と動物との違いを抉り出す存在である。

5話のビースト来襲のシーンだが、キュルルを狙って落ちてきたようにも見えるし、トントン相撲に混ざろうとして思いきりトントンしたようにも見える。だがそれを確認する術はない。
9話ではキュルルとイエイヌを襲っているようにも見えるし、キュルルの叫び声を聞きつけてキュルルを誘拐したイエイヌと戦っているようにも見える。当然確認する術はない。傷付けられたイエイヌが残されただけだが、それすらビーストは狩りごっこのつもりだったのかもしれない。すべてビーストの本能なので仕方のないことなのだ。

降り注ぐキラキラ

作中、アニマルガールが降り注ぐキラキラに彩られるというシーンがある。
2話のジャイアントパンダが得意なことを生かして戦っているシーンではサンドスターが彼女を彩っている。
2話と対比関係にある8話では居場所と決めたステージに立つPPPがキラキラに彩られる。
そして11話では危機に現れたチーターがキラキラに彩られている。
チーターには「フン、縄張りなんて、自分がここだと決めた場所を速さ(得意なこと)で勝ち取るものよ」というセリフがあることから、彼女もまた居場所をここと決めたのだとわかる。チーターはカルガモと同じく倒れた者に手を差し伸べる象徴だ。チーターは得意なことと役に立つことが一致しているため自信に溢れている。
12話ではホテルの屋上で戦うアニマルガール達がキラキラに彩られている。彼女たちは自分たちの居場所のために戦っている。

降り注ぐキラキラに彩られたキャラクターは居場所を決めたという意味付けがされている。
ではビーストはどうだろうか。
ビーストの感情は語られない。表情もセリフもなく説明もない。そんなビーストのラストシーンはこうだ。

キラキラと輝く光の粒の中、崩壊する音は遠のき、静謐な空間の中、ビーストは二本の足で立ち上がり満足げに胸を張って空を見上げる。
前景に瓦礫が降り注ぎ、画面が暗転する。

けものフレンズ2でのセリフははっきりと説明する意図で機能している。動物の特徴などはセリフで明確に説明される。セリフは雰囲気やキャラクター性というよりも必要だから存在している。
そのセリフで、「わかりあえなくてもわかろうとする」ことは「浅はか」だと「説明」されている。つまり野生の象徴であるビーストのことは「わからない」のだ。
演出によってビーストをもう少しで理解できそうだというところで瓦礫で暗転させるというのは、わからないものを結局よくわからないままで置いておくという演出なのだ。

けものフレンズ2のテーマには助け合うことや自分の居場所を見つけること、忘れていた存在する意味を思い出すことなどがある。
ビーストが瓦礫に潰されて死んだという解釈があるが、このタイミングでビーストが死ぬというのはテーマ的にもプロット的にもおかしいし、演出とも完全に矛盾している。
つまり、ビーストが瓦礫の下敷きになって死んだというのは誤読だということになる。

ビーストはついにパークの中に居場所を見つけたのだ。
すべての状況がそう語っている。

アムールトラのフレンズ

12話の海上でビーストが降りてくるシーンと酷似しているのが3話での沈んだ舞台を探すシーンだ。ここではキュルルが帽子を飛ばされそうになっていることが対比関係にあると示している。では何故このシーンと対比関係にあるとわざわざ描いたのだろうか。
舞台とビーストの組み合わせで連想されるものはサーカスだ。そしてビーストは鎖で拘束されている。おそらく人を襲うなどして隔離されたのだろう。人に従わないという、野生の象徴としてこれ以上ない存在だ。

リョコウバト


帰る場所のなかったリョコウバトはホテルの倒壊時、転ぶアードウルフに手を差し伸べた。同じ画面にカルガモチーターが映っているので、自分の居場所を見つけたというメッセージになっている。

イエイヌ


かつての姿は必ず再現されるというのがテーマにある。
イエイヌは月明かりの下でひとり、過去を懐かしむ。オルゴールが穏やかに響いている。
取り出した絵にはイエイヌと三人とミライが描かれている。
月光とオルゴールと回想が調和するとても美しいシーンだ。

室内を照らす月は満月で円形だし、オルゴールは円柱を回転させて音を奏でる仕組みだ。ゼンマイを巻き直すことで何度でも音楽を奏でる。対比関係にある6話の小道具は砂時計で、どちらも「再生」の意味を持つ。

つまり、三人は再びイエイヌの元を訪れるのだ。そこには当然かばんもいる。キュルルはパークのお客さんではなくパークの一員としてイエイヌの前に現れる。
イエイヌにとってのかつての帰る場所が形を変えて再現するのだ。

3)さいごに

キュルルが好きだと叫ぶことで物事はドミノ倒しに好転した。好きだと発することが大事なのだ。わかりあえなくてもわかろうとする姿勢が大事だ。そのために好きだという気持ちを大事にするのだ。
好きであるなら、自分の好意が動物にとって迷惑なものであったなら、そこから逃げずに立ち向かい、いま自分にできることをするべきだ。そのようなテーマなのだろう。

けものフレンズ2は最後に全てのテーマがぴたりとまとまっている。見事としか形容できない。
シーンの全てに意味があり、シーン同士は響き合う。
普遍性を持つ作品なので年齢によって見え方が変わり、何度でも何年後でも楽しむことができる傑作だ。
個人的な分析を感想に代えてつらつらと書き連ねたが、この記事があなたの豊かなけものフレンズ2体験に貢献できることを願って。

 

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