けものフレンズ感想

 アニメ「けものフレンズ」のシーズン1(以下1期)では最後にかばんとサーバルは別れてしまう。
 物語ではサーバルが縄張りを捨ててかばんを追う結末になってしまうのだが、別れるという決定がされたことがずっと不思議だった。なぜなら1期はかばんとサーバルの分かちがたい絆を描いた物語だったからだ。
 かばんとサーバルが別れるに至った理由を、1期と2期を俯瞰することで推察しようと試みるのがこの記事の趣旨だ。

 

 

 

 

1.出会いと別れの1期

かばんの誕生、動物とのマリアージュ

 かばんの誕生は広大な自然と無力な子供という対比で描かれる。
 人間の子供は自然の中では生きられない。動物であるサーバルと旅をするなかで、それとは異なる自分の特性を理解するという仕組みだ。カバのセリフでも直接提示される。成長物語のテーマでもある自分探しと相性のいい設定だ。
 この対比によって1期のテーマは人間と動物のマリアージュを目指すものなのだとわかる。

 1話では、サーバルがかばんに手を差し伸べる印象的なシーンが4度ある。自信をなくしたかばんはサーバルの手を取れないが、特性の違いを諭されてようやくサーバルの手を取るのだ。そして二人は手を繋いだまま立ち上がり、握手の姿勢になる。対等になったということだ。ここから旅が始まる。
 ここでは線のように引かれた川がいわゆる分岐点としての意味を持っている。要するにプロットポイントを可視化してくれているわけだ。

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分岐点を表す中央の画像はかばんが川に落ちた直後のものだが、漢字の凹に似た景色でかばんの心中を表現している。

アンイン橋、分岐点というスタートライン

 アンイン橋では河を渡れる動物と渡れないかばんとサーバルという対比になっている。
 渡れるものと渡れないものが協力するという構図は人間と動物のマリアージュに繋がる。1期はこのタイプの対比がとても多く登場する。人間はジャガーたちの力を借りて橋を作り、ついに河を克服したのだ。
 この河は分岐点にもなっていて、旅立ちのスタート地点だ。分岐点は、越えたらもう元には戻らないという意味でもある。成長は不可逆なのだ。

湖畔と平原、居場所探しというテーマ

 湖畔では考え過ぎて前に進めないビーバーと考える前に動いてしまうプレーリードッグの二人と出会う。このチグハグな二人はかばんの助言によってお互いの欠点を補い合い長所を伸ばすコンビとなった。
 一緒に家を作って住むというのは「縄張り=居場所」の象徴であり、言葉通りのマリアージュだ。このエピソードはかばんの「縄張り=居場所」を探す旅なのだと暗示している。

 平原ではもう少し複雑になり、草食獣に攻め込まれる肉食獣という逆転、二面性のあるライオンと裏表のないヘラジカ、猪突猛進が合わない防御型のフレンズ、という対比構造を持ち、それらが縄張り争いをしている。ここでいう城とは当然「居場所」のメタファーだ。アルマジロやシロサイは防御に特化した習性を生かして活躍し、肉食獣と草食獣は仲良く蹴鞠遊びに興じるという結びになっている。

 図書館は知恵の実を模した建物の中央を大木が貫いて、自然と人間のマリアージュを意図したかのようなデザインだ。そこでは「合わない地方での暮らしは寿命を縮める」と助言される。合わない地方というのは居場所でないところを指し、かばんとサーバルは離れてはならないという意味になる。

離別

 旅の中でかばんとサーバルはお互いのかけがえのなさを知り、巨大セルリアンとの戦いでその度合いが露呈する。かばんとサーバルはふたりとも相手を失うくらいなら自らの死を選んでしまうのだ。
 こうして二人はかけがえのないペアとなった。だが物語はここで大団円とはならない。かばんは人の住む縄張りに行きたいと願い、サーバルはそれを認めた。二人は別れる決意をする。けれど船出をしたかばんの後をサーバルが内緒でついていってしまい、再び合流したところで物語は終わる。

 なぜ二人は別れる決意をしたのだろうか。
 二人は別れるために出会い、別れるために自らの命と引き換えに相手を救うような関係を築いてきたというのだろうか。ここまで分かち難い絆を描いてきていたのに、あまりにもあっさりと別れを決めてしまっているのは何故だろう。

2.エコロジー的視点で見る2期

キュルルの誕生、人間の世界から分断された動物の世界へ

 その理由は1期と2期を比較することでなんとなく見えてきた。
 キュルルの誕生は、卵の殻のような割れ方をする天井と、そこから暗い室内に差し込む一条の光、生まれたての子鹿のようなおぼつかない足取りで表現される。墓所のような雰囲気は再生や復活といった印象を抱かせる。

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 キュルルの旅のテーマは、暗い人工的な施設と明るい大自然という対比で描かれる。
 この印象はそのまま「人工物から大自然へ」という意図があると同時に人間と自然が分断されていることを示す。

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 廃墟化した設備と草原の間に、川が大きく斜めに流れている。これは人間の世界と動物の世界の分断のほか、時間的な大きな隔たりがあるというような意味になるのだろう。

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 キュルルは自分を獣ではないと言い切るが、ヒトなんじゃないのというカラカルの問いには答えない。キュルルはヒトと獣の間にいる曖昧な存在なのだ。設定ではメッセンジャーという役割を担うとあったが、なるほど両者の間を行ったり来たりするわけだ。
 このように、けものフレンズ2は導入から強めのイデオロギーをぶち込んで来ている。

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 研究施設から出たキュルルはサーバルカラカルとともに再び研究施設に戻り、三人で再び扉をくぐって柵を越える。行ったり来たりな行動パターンは2期で繰り返されるシナリオの様式で、このシーンはこれからの旅のパターンを示している。キュルルの曖昧さや、人間の世界と動物の世界のどちらでもない廃墟化したジャパリパークを表現しているのだろう。
 ちなみにこの柵も分岐点になっている。

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このとき挟まれる川の絵は前述のななめに走る川と対になっており、分断は解消され、人と動物がひとつになったのだと読むことができる。物語は人と動物の旅を歓迎している。

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上の画像では「扉」が逆の意味にはたらいている。意図をもって作られた構図だというのは、後のシーンで扉が閉められていることからも明らかだ。扉はあえて開けてあるのだ。

 12話でキュルルは屋上の溝を越えて扉をくぐるが、これは上述の「研究施設から扉を潜り柵を越えて三人で旅に出る」という流れを逆に踏襲してしている。1話で越えた危険極まりない溝も分岐点の意味を持ち、人の世界である研究施設と動物の世界を分ける線になっている。
 溝を越えて扉をくぐるという行為は、せっかく旅をしてきたのに人間の世界へ戻ってしまうというような意味になる。

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1話と12話の分岐点の比較。動物の世界と人間の世界を隔てる境界線は「危険極まりない溝」としてかなり露骨に描写されている。

 カラカルのセリフ「下ばっかり見てないで顔を上げなさい」は、クライマックスの船上でキュルルが好きだと叫ぶシーンにかかっている。
 キュルルは下を向き、そのとき水面に映る表情は歪んでいて判然としない。キュルルは自分の姿がわからないのだ。そこから好きだと叫んで顔を上げて、ビーストという啓示を授かるのだ。

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水は覗きこむ者の心を映す。キュルルの心は揺らめいていて判然としない。自信がなく、自分のこともよくわからないのだろう。

居場所のないことを確認する旅路

 キュルルの旅も「おうちさがし」で喩えられているように、かばんと同じく居場所を探す旅だ。当然その過程で自分を知ることになる。
 キュルルはスケッチブックを頼りにおうちを探すが、実態はスケッチブックで描いた場所のどこにも自分の居場所がないことをしらみ潰しに確認する苦難の旅だ。
 出会うフレンズたちには予め「居場所」となる相手が存在する。物語は追い討ちをかけるように人の業を匂わせる。キュルルは居場所がないどころかここに居てはならない迷惑な存在なのだ。

 動物に居場所になってもらえないキュルルだが、では中盤に登場するかばんはどうだろう。
 かばんはジャングルという動物の世界からキュルルを連れ出して、研究施設に招き入れる。研究施設は人間の世界の象徴だ。そこで食事に誘う。

 食事は一般的には家族や仲間といった意味を持つ。ここではキュルルたちに仲間になれと誘っているのだ。皆で鍋をつつき合うのはひとつのものを分かち合う行為だし、さらにその鍋は血のように赤く煮えたぎっている。かばんは隠し事を打ち明けないが、鍋はかばんの内に秘められた(そしておそらくサーバルに向けられている)強烈な感情を表す。
 だがキュルルは施設に入る前に「全然違う」と言った通り、未練もなくさっさと立ち去ってしまう。サーバルにいたってはかばんと目を合わそうともしない。明らかに避けている。
 こうしてキュルルは人間の世界での暮らしを拒否したのだ。

 キュルルはリレーには加われず、ペパプのライブでは前座に過ぎず、イエイヌはキュルルではない人間と暮らすことを選択した。
 リョコウバトは転んだアードウルフに手を差し伸べた。そのカットの背景ではカルガモロードランナーが描かれている。1話と7話のテーマは転んだものに手を差し伸べるというものだった。リョコウバトがパークの一員となった証拠だ。
 だがキュルルの居場所はまだどこにもない。

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ご丁寧にチーターまで映っている。

動物の世界との再会

 この時点で残っているのはビーストだけだ。
 ビーストは自然に最も近い象徴的な存在だ。誰にとっても迷惑な存在だという点でキュルルとよく似ている。大好きだと叫んだキュルルにはビーストという啓示が与えられ、キュルルは動物の世界で生きると決断した。
 キュルルは動物の世界のどこにも居場所はなく、それでも人間の世界ではなく動物とともにあろうと決めたのだ。
 人間の世界の象徴である人工物のホテルは崩れ去り、かりそめの住まいはなくなった。キュルルは動物の世界を選んだ。崩れたホテルを背景にサーバルと向き合ったかばんもまた、人工物である施設から出て動物とまた会いたいと叫んだ。
 サーバルは人間の世界に住むかばんと再会の約束を交わし、けれど動物の世界を選んだキュルル共にゆく。
 けものフレンズ2とはつまりエコロジーを下地とした作品であり、動物と共に生きるまでの経緯を描いた作品だといえるだろう。

3.1期に見られるエコロジー的要素

動物との絆か、動物への干渉か

 では1期はどうだろう。動物コンテンツなのだから当然エコロジーの話でもあるはずだ。
 かばんは動物とともに旅をし、動物たちに不可逆な影響をもたらした。河に橋をかけることで生態系に変化は起きなかっただろうか。ビーバーとプレーリードッグをつがいにして本当に良かったのだろうか。動物の争いを諌めるべきだったのだろうか。
 動物たちは道具を作ることを覚え、火を操るようになった。ヒトに近づいてしまっている。

視点を変えて要素を見る

 平原の動物たちは人工物である城を出て、みなで仲良く遊んでいる。図書館は知恵を禁断の果実と表現し、人工の施設は大木に貫かれている。人間の手を離れて廃墟化した遊園地は人の絶えたジャパリパークのメタファーだ。
 動物たちはかばんの影響を受けてついに災害の象徴である巨大セルリアンすら退治してしまう。
 人間を外に出す船は犠牲にされる。

 1期もエコロジー強めの話だったわけだが、動物を扱うコンテンツであれば当然だ。

別れに至るダイアログ

 2期10話でキュルルとサーバルの掛け合いがある。

「僕の探しているおうちって本当にあるのかなって。もし……もし仮にそんなところはじめからなかったとしたら僕はどこに行けばいいんだろう」
「大丈夫、なかったら探せないよ。でも探しているんだから見つかるよ、きっと」

 というものだ。
 意味としてはキュルルが甘えたのにサーバルは空気を読まず励ましてしまったという滑稽なすれ違いになっている。
 一緒に暮らそうと誘って欲しがっているキュルルに対して、サーバルは頑張ってお家を探してねと突っぱねているわけだ。イエイヌに「おうちにおかえり」と言ってくれと求められたシーンと同じ構図だ。

 これと同じ状況が1期10話にもある。

「もし港とか海が本当にかばんちゃんの縄張りだったら、そのあとどうするの?」
「そうだね。もしヒトがいたら、ヒトがどうやって暮らすのか聞きたいな。いなかったら、うーん考える」
「海辺に住むことになっても、さばんなにも遊びに来てよね。あっ、それかビーバーたちみたいに一緒に住むのってどう? 楽しそう」
「……」

 これを上述のキュルルとサーバルの会話と比べてみて欲しい。
 サーバルはかばんと住むことを提案した。かばんは何も答えない。これはかりそめのおうちであるロッジの中で交わされる。雨は止まない。
 そして、かばんはヒトの縄張りを求めて島の外に出て行ってしまう。
 見送ると決めたサーバルだが、自分の縄張りを捨ててこっそりとかばんを追ってしまう。サーバルはもはやかばんなしでは寿命が縮まってしまうのだ。

こうしてかばんとサーバルは別れた

 かつて人は動物の仲間だったが、人が縄張りを広げるとともに動物は縄張りから追いやられ、または人間との共生を余儀なくされ、それによって人の世界と動物の世界との分断は広がり続け、やがて人は動物の世界に住めなくなってしまったという物語。寓話だろうか。私たちはこれとよく似た歴史を知っている。

 かばんは現生人類を象徴している。キュルルの背負わされた業は極端にいうとかばんによるものだった。かばんは動物との間に線を引くかのように高い塀に囲まれた人工的な施設の中で暮らしていた。1期と2期は対比の関係にあったのだ。
 1期は絆をつなぐ美しさとそれが分断につながってしまう儚さの二重の構造、2期は分断されてしまった両者の悲しさと、それでも動物とともにあろうとする気高さの二重の構造で構成されている。
 1期と2期は様々な類似点を持ち、構造も非常によく似ている。2シーズンをセットで考えるべき作品だったのだ。

 かばんとサーバルが別れた理由とは、現実の私たち人間と動物の共存の難しさがそのまま当てはまる。人間は縄張りを拡充し続けていて、動物との断絶もまた広がり続けている。
 この状況への問題提起でもあるのだろう。

4.テーマから見た1期への指摘

 1期は異なる個性を持つ者たちのマリアージュが描かれるが、視聴していて気になった点をいくつか指摘させてもらう。

テーマと動物の特性のアンマッチ

 湖畔のビーバーの逡巡はマイナス思考であることと借金をして木材を手に入れたことの二点を理由にされているが、動物の特性上の欠点とは関係ないため、多様性のマリアージュとして利用するのは無理やり感が否めない。
 指示があるとはいえまともな穴も掘れないプレーリーがいきなり建物を組み上げられることも説得力に欠けるし、何より木材を用意するにあたってビーバーのお株を奪っているように見えてしまう。
 結果、動物の特性とは関係ない部分を誇張してドラマを作っていることになってしまっている。個性の違いによるマリアージュで多様性を表現するのであれば物足りない。

意味のないヘラジカ

 平原ではライオンの二面性と表裏のないヘラジカとのマリアージュは描かれていない。ライオン側の視点で描かれているのでヘラジカは執着心が強いだけでただ頭の悪い無能な上官になってしまっている。ライオンの二面性も、裏にある緩い顔は結局かばんたちにだけ見せていて、部下やヘラジカには強いボスの顔のままだ。冒頭の威圧的な態度はなんだったのだろうかとなってしまう。普段は緩く、決める時は決めるのではないのだろうか。だから部下に信頼されているのでは。
 クライマックスのチャンバラも、ヘラジカの情熱にあてられてライオンは本気になってしまったという流れではあるが、あまり厚みを感じられなかった。

 ただし、これらはかばんとサーバルの関係の暗喩ひいてはマリアージュのテーマとしては弱いということであって、テーマ性よりもエンタメを重視する目線で見ればわかりやすさによる確かな納得感はあり、総合的な満足度は高いともいえるだろう。

2期でも繰り返される湖畔と平原の小テーマ

 1期の5話6話のイズムは2期の5話7話に継承されている。
 二面性を持つゴリラだが芯は群を守ることに据えられており、威厳は群れの統率のためであり、ストレスに胃を痛めるのも群れを考えるからこそだ。ゴリラは群れのために戦いを避けて逃げることを常に選択し、ビーストに襲われた時もセルリアンに襲われた時も一番最後まで残って群を守り、いざとなれば自分よりも強いパンダを背負って戦う。ライオンの二面性はこのようにブラッシュアップされた。
 色が違うだけのヒョウ姉妹と見た目もサイズも違うワニ姉妹という対照的な関係はビーバーとプレーリーのマリアージュをなぞりつつ動物の特性を強く出したものになっている。
 肉食獣を襲う草食獣というテーマはチーターを追い回すプロングホーンという関係にそのまま継承され、「チグハグ」という部分は、最速だが数秒しかもたないチーターの特性と最速ではないがスタミナのあるプロングホーンの特性に引き継がれた。さらにチグハグさを内包する存在として足の速い鳥であるロードランナーが採用されている。
 チーターは駆けっこでプロングホーンに敗北したが、最速ダッシュとターンという草食獣を狩る技術でプロングホーンを助けた。アンカーのサーバルによって一人ではないことの強さを知ったのだ。
 余談だが転んだものに手をのべるという7話の要素とチーターの急ターンは11話のトラクターで駆けつけるシーンで繰り返されていて、急ターンで落ちるフルルと手をのべるロバの姿がリフレインを促している。

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急ターンで転ぶセルリアンとフルルを振り落とすトラクター。

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サーバルは何度もかばんに手を差し伸べた。
カルガモはキュルルに、サーバルチーターに、チーターはプロングホーンに、ロバはフルルに、そしてリョコウバトはアードウルフに手を差し伸べた。

ペ・パ・プ

 1期8話のペパプ登場の回は、そこに居場所のない者が居場所を作る話だ。
 8話の要素を抜き出すと、ペパプに対するプリンセスの憧れとマーゲイの憧れが並べられ、ペパプにとってなくてはならない二人になるという筋書きを連想させる。

 内容はこうだ。ペパプに憧れたプリンセスは初めからいたことにしてある意味ゴリ押しし、企みが露呈すると逃げ出してしまう。それをマーゲイの力技でショーの一環にして、プリンセスはなし崩し的に復活する。実はメンバーはプリンセスの頑張りを知っているから既に認めていたという結末で、マーゲイは特技でプリンセスとペパプを繋いだことで一員になったというシナリオだ。
「存在しない居場所を作るため」というテーマに対して、話としては成立しているが、射抜いている手応えは少ない。ペパプに対してのマーゲイの憧れとプリンセスの憧れの重なりも弱い。

 だが2期の8話も同様の弱さを抱えている。
 マーゲイは強すぎる憧れを抱くあまり気持ちだけが空回りし、かえってペパプの足を引っ張る結果になってしまい、結局前座のお芝居は取りやめてライブに集中することになる。
 だがトラブルが起きてペパプの準備が遅れてしまう。そこでやっていたお芝居の準備が役に立つ。マーゲイの機転でピンチはチャンスに転換し、それが最高の演出となってライブは大成功。ステージを居場所とするペパプと、そんなペパプを居場所とするマーゲイは信頼関係で結ばれているというシナリオだ。
 居場所を作るというテーマは今いる居場所を再確認するということに変化した。
 話としては整えられている気もするが、ノイズが多いため分かりにくさは否めない。プリンセスとマーゲイの絆もよく見えない。

 ノイズというのはたとえば、5話のゴリラはキュルルでいわば猿回しするが、立場の逆転を連想させる「動物に操られる人間」という要素をマーゲイが指示する「芝居をする人間」として繰り返し、さらにフレンズに追い回されるセルリアンという図式に昇華したことだ。
 また、セルリアンの皮を被ったカラカルはひっくり返すとフレンズの皮を被ったセルリアンとなり、本から生まれたセルリアンと合わせてスケッチブックから生まれるコピーセルリアンの伏線になっている。
 ほかに、皮をかぶることが化けの皮をはぐことの暗示になっていたりする。
 とにかく詰め込んでいるという印象が強い。

 1期8話の存在しない場所に居場所を作るというテーマは2期のパーク内に存在しないキュルルの居場所を作るというテーマに継承されている。

意味のない擬似同棲

 1期10話のロッジはクローズドサークルという舞台の中でかばんとサーバルが擬似的に同居するが、楽しい同棲生活という描かれ方はされない。
人の作った施設で暮らす動物、動物向けの部屋で過ごす人間というミスマッチが描かれてはいるが、効果は薄い。サーバルがかばんに持ち掛けた話も動機は見えにくく、かばんが沈黙で答えた理由も不鮮明だ。夜中につまみ食いをしたサーバルと謎を解いたかばんの知恵はテーマにどう関係しているのだろうか。

何故かばんは別れようと思ったのか

 かばんがサーバルを捨てて島を出るに至った経緯は不明だ。島を出るにしても、残るにしても。
人の縄張りを目指すということは、ちょっと会ったらすぐに帰ってくるというような意味ではない。心の中で別れを決めているサブテクストだったことはラストシーンで明らかにされた。だがサーバルを捨ててまでどうして人に憧れるのかの説明も足りていない。
 別れてはならないというストーリーでここまでやってきたのだ。なぜ掘り下げを避けたのだろうか。
 結果、サーバルは縄張りを捨ててかばんを追ってしまったが、表面上はハッピーエンドに見えていても、実際はバッドエンドだ。動物を縄張りから連れ出してしまっては駄目だろう。さらに悪い事に、サーバルは「自分の意志で」縄張りから出てしまったのだから「仕方ない」という言い訳まで用意してあるのだ。かばんは喜んだし、もちろん多くの視聴者もかばんと同様にサーバルの決意を歓迎していた。
 これをどう考えればよいのだろうか。

 LBの映像の中で、ミライは逃げる際にパークガイドの証である帽子を飛ばされた。ガイドの資格を失ったということだ。その負債(巨大セルリアン)はかばんたちが完済した。そのかばんの負債(人と動物の分断)はキュルルに引き継がれ、キュルルは最後に帽子を取り戻した。
 時を超えて、人間は再びパークの一員となったのだ。

オマージュいろいろ

 2期には1期のオマージュがとても多い。2期を見ていく中で謎に思うシーンがあったのだが、それらは大体1期の中に答えがあった。

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 サンドスターには再生の意味があるが、思い出すことも再生と似たテーマを持ち、その意味もあってのオマージュなのだろう。冒頭に挟まれる前回のあらすじも、いかにも思い出しのテーマを表している。

おわりに

 けものフレンズの構造の特徴はたつき監督の次作であるケムリクサにも見られる。ケムリクサは死のうとしたりんが再び生きる希望を抱き、最後まで生き抜こうとする姿を描いた作品だ。暗い世界と明るいわかばという対比からはじまり、旅を通して絆を結び、障害を乗り越えるという構造や、役に立つ能力を生かして生き抜く世界、先代からの負債、祝福としての新天地などの要素が共通している。
 おそらく1期と2期のシナリオが大きく関わっているのだろう。ケムリクサの構造はけものフレンズ1期と2期に酷似している。2期では役に立つ能力どころか迷惑であってもいい、負債の中で生きる、外には出ていかない等々、各要素は逆の意味になっているわけだが。
 たつき監督がけものフレンズ2を作っていたらという想像がよくされている。いい機会なので私も考えてみたのだが、たつき監督のゴリラはグーでドラミングをし、後ほどキャラの口を借りてパーでなかった理由を語らせそうだなと思った。

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